第5回

第5回 「セカイの日本語〜みんなの声〜」で教師である「わたし」を考える

米本和弘(東京学芸大学)

「中途半端」。この言葉は子どもの頃から多言語環境で育ったあやさんとゆうこさんが、本プロジェクトのインタビューの中で自分自身や自分の言語を表現するのに使っていた言葉です。そして、私自身が20年前に日本語指導ボランティアとして関わった中学生が、同様に自分の言語を表現するために使っていた言葉でもあります。彼は、中国語と日本語と英語ができても3つとも全て中途半端だと言っていました。全く異なる時と場所で生まれ育った3人が同じ言葉を使っていたのです。

なぜこの3人は自分の言語を中途半端だと思ってしまったのでしょうか。この疑問について考えたとき、私の担当する年少者日本語教育に関するコースを受講している留学生が、ちょうど先週の授業で言っていたことを思い出しました。彼女は、生まれた時からその言語をネイティブのように話し、操ることができなければ「話せる」とは言えないと言っていました。そこから、私たちが言うネイティブ/〇〇人とは誰なのか、ネイティブとはどんな言語を話しているのかを、日本人の学生も含めてクラス全体でディスカッションしました。その中では私たちが日頃何気なく使っているネイティブや〇〇人、バイリンガルといった言葉の裏側にある政治性や価値観、そして多様な日本語使用者へ与える影響に対する気づきがあったようです。

一方で、多様性を自分から切り離して、外側から見ているような声も聞こえてきました。ただ、これは学生に限ったことではないかもしれません。私自身、日本語や日本語使用者の多様性に対する意識を広げたいと考え、このプロジェクトに取り組んできました。しかしながら、上の留学生の言葉を聞き、普段の授業の中で、私が学生たちの持っている意識をより強固なものにしてしまっていたのかもしれないと感じました。私たちは教える対象として日本語やその多様性を見ることが多く、自分自身がその一部であり、それを作っている一人であるということを忘れがちなのかもしれません。そして、この経験を通して、ある見方や考え方があまりにも自分にとって当たり前であるがあまり、気づいたり、ふり返ったりすることが難しいと、つくづくと感じました。

この点で、多様な日本語使用者の声に耳を傾けることは、自分の考えや見方をふり返るきっかけを与えてくれたように感じています。日本の学校教育では「学び続ける教師」であることの重要性が指摘されていますが、私も学び続けると同時に他者の声に耳を傾け、ふり返り続けられ続ける教師でありたいと考えています。