第3回

第3回 「セカイの日本語〜みんなの声〜」を経て今感じること

川口真代(トロント大学)

私はこれまで日本語を話す大学院生として、カナダの大学の日本語コースで学ぶ人々と関わってきた。私にとって日本語教育は、自分の持っている言語を生かして誰かをサポートできるという充実感や、様々な目標や個性を持った学生と話すことのできる楽しさを感じられるものだ。ただ、ある時、自分が「(日本人なら)どう話すのか?」とよく訊ねられることに気づいた。質問者の意図は、単に文法的に正しいことが知りたいということもあったと思うが、何より私が日本人であるから知っているはずだと、はっきりと期待を示す人もいた。しかし、正直なところ、私はどの程度、彼らの思う「日本人」なのか。私が「自然だ」と感じるコミュニケーションや表現であっても、他の人は違うと判断するかもしれない。だが、こうした質問をする人は、そんな私の考えよりも「正しい日本語」であるかを知って、白黒を付けたがっているように見えた。その意欲に答えたいと思う一方で、私自身がこの会話によって、改めて相手に「日本人」と印象付けられることに内心、戸惑うこともあった。

そんな時に「セカイの日本語〜みんなの声〜」プロジェクトで、学習者を含めた様々な日本語使用者に日本語に関わる経験や、その経験から感じたことを聞く機会に恵まれた。語り手の話は一つの事柄や場所に留まらず、言語がいかに流動的に私たちの生活の中で存在しているかが表れていた。また「日本人=日本語」のイコールサインも、多くの人の経験や意見に影響を与えていることが見えた。

プロジェクトでは、これらの語りをデータではなく、リソースとして提示している。この豊かな素材から「声」を聞き取ること自体が、活動としてもっと必要なことではないかという想いがあるからだ。この「声」は聞き手によって、微細に違ったものになるだろうし、変化することもあるだろう。私自身、繰り返し聞く中で気づいたり、思い直したりすることもあった。それは彼らの語りから、それまであまり気にしていなかった言語に対する見方や、それに基づいた言動・行動に気づかされることがあったからだと思う。先述の経験についても、私が自分から「日本人」という枠から踏み出して、日本語も学習者の持っている他の言語と同じように多様だと、お互いが認められるコミュニケーション作りができないかと今は感じている。そして、その時は一つの方法として、このリソースを共有することが役立てばと願っている。