第4回

第4回 「セカイの日本語〜みんなの声〜」と私の学び

津田麻美(上智大学)

東京で私の娘が通っているのは、ごく普通の区立幼稚園だが、外国籍の親御さんを持つ子供たちも沢山いる。しかし、幼稚園のしおりやお便りをはじめ、お迎えの時に先生が話してくれるその日の出来事なども全て日本語である。私は海外で過ごした期間が長いこともあり、そのような時に通訳をする機会も多いのだが、そんな中、 何度もハッとさせられることがあった。

例えば、娘が夕方までお友達と遊んでいた時のことだ。私が住んでいる地域では、夕方5時になると「夕焼け小焼け」が流れる。それを聞いて「カラスが鳴いたから帰ろう」と娘に声をかけた時、一緒に遊んでいたお友達のお母さんが「どういう意味?」と聞いてきた。そのお母さんは中国出身で、日常会話などは日本語で問 題なくできるが、童謡や昔話などは全く知らないため、なぜ皆が「カラス」というのか不思議に思っていたと言った。それまで、手紙や大事なお知らせを訳すことはあっても、子供が歌っている歌やお遊戯について話したことがないなと、その時に気がついた。

また、あるイタリア人のお父さんは、日本語があまり分からないのだが、ある日「困っていることがある」と言う。てっきり日本語のことかと思っていたら「イタリアではよく子供を招いてピザを作るパーティをしていたが、日本でもそのようにお友達を招待しても大丈夫か、変だと思われないか」という相談だった。理由を聞くとそのお父さんが心配していたのは、日本語が分からないことではなくて「自分が外国人であることで、子供がお友達と遊ぶ機会を奪ってしまっているのではないか」ということだった。

身近にいる外国人が「困っている」というと、つい「言語」に結びつけて考えてしまいがちだ。特に、職業が日本語教師であると、どうしても言葉の方に意識がいってしまう。しかし、思い返してみると、自分が海外に住んでいたときに分 からなかったのは、もちろん言葉だけではなかった。また「セカイの日本語〜みんなの声〜」で行ったインタビューを振り返ってみても「人を助けようと思っても(自国の文化とは違って)日本人はそれを恥ずかしがるから、自分も恥ずかし くなってきた」というイエメン出身のヘンドゥさんの話などからも分かるように、本当の多様性を考える上では、言葉の後ろに広がる、その人の持つ文化的価値観や経験が大きな意味を持っている。「日本語の多様性」について常日頃から考えているつもりの私でも、まだまだ無意識のうちに「日本語がよく分からない =言語的な助けが必要」だと勝手に気負っていた部分があるのかもしれないと考えさせられた出来事だった。結局、娘は「夕焼け小焼け」の代わりに中国語の歌 を教えてもらい、イタリア人のお父さんお手製のピザも何度もご馳走になった。彼女の周りの多様性のおかげで、幼い娘の世界もまた広がっている。

このプロジェクトを通して、セカイの日本語話者の「声」に触れ、そこから「自分の中の多様性」「自分が様々な日本語話者をどのように受け止めているのか」についても思いを巡らせることができた。これは、この先もずっと続いていく私自身の学びであると思う。このプロジェクトが、他の誰かにとっても、同じような気づきや学びの一助となれば、大変嬉しく思う。